Funny Walking

人の個性への好奇心

物語の意義について - 感じる力を取り戻すためのものとして -

マンガ、小説、映画、思想書や音楽、絵画は実生活に役に立たないけど、役に立つという言葉だけで割り切ることのできない「感じる力」を養ってくれるような気がする。

自殺島』というマンガを読んで、そんな感想を抱いた。

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この作品は、自殺者の処理費用を賄えなくなった日本国が、生き残った自殺者を個人情報すべて抹消した状態で島流しにするというフィクションの制度が存在する世界の話だ。主人公は自殺未遂で島流しにされたうちの1人。最初は死ぬことを求めていた主人公だが、食料を求めて入った山の中でたまたまシカの群れを見つけ、その雄々しい姿に感動する。主人公はシカ狩りを決意し、必死の格闘の末、一頭の雌鹿を仕留めることに成功。捌いたシカの肝臓を食し、生き物から命をもらうことの感謝を実感した主人公は、徐々に「生きること」へ向かって進んでゆく。

本記事を書いたきっかけは、本作10巻の98話『満たされる事』の一文を読んでとても感動したからだ。

仕事があり 飢えていなく 家族がいても気うつになり 自殺する人がいる

他人がわからなくても その人にとっては 自ら命を絶つ程 苦痛な暮らしなのだ

それは何故だろう

私は"喜びを感じる能力"が重要だと思う

「喜びを感じる能力」を何から得ていたのかというと、自分の場合、マンガや映画、思想書からだった。これらのジャンルはどちらかというと「娯楽」に分類され、実生活では役に立たないものと言われている。高校時代の進路調査で「大学で哲学をやりたい」と担任に言ったところ、「哲学なんて就職先ないよ!」などと言われ、ずいぶん傷ついた記憶がある。

でも、「感じる能力」という言葉を軸に捉えなおしてみると、哲学もマンガも映画も、とても大切なものだということが分かる。

そもそも「役に立つ」ということは、いったい何に対してなのか。役に立つということは、「使って効果がある。有用である。」ということで、自分が「役に立つ」というときは、「仕事に有用である」とだいたい定義している。で、仕事に役に立つということは、言い換えると「既存の仕組みにうまく適合するために有用である」と言えるのではないかと考えている。つまり、「他人の決めた枠組みのなかで機械的に物事を捌く」ことに効果を発揮するということだ。ということは、「仕事に役に立つ」ということは、他人の枠組みの中で生きるということになり、枠組みを決めた他人に自分の意志を委ねるということにつながる。そうすると、枠組みを作った人に理不尽な要求をされても断れないし、それが理不尽だと捉えることもできない。感情が死に、理性も同時に死んでしまうからだ。軽減税率のあの複雑な仕組みで、いったい誰が得をするのか。そもそもあんな複雑な仕組みを導入しなくても良いようにしなければならなかったのではないだろうか。

そのときの体調に関係なく、仕事で安定してパフォーマンスを出すために、スキルがある。そのスキルは仕事のためにある。仕事は生活の糧を稼ぐためにある。生活の糧を稼ぐのは、生活を充実させるためだ。生活を充実させるためには、生きることそのものに感動する能力が必要なのだ。そうしないと生きること自体が苦しくて堪らなくなる。

自分はいま求職中で、一日の時間の少なくとも8時間が仕事というわけではない。だから余計に考える。「仕事に役に立つこと」を追い求めていいのか。今している勉強を、仕事が無くなったとしてもやるのか。神経症のように考えている。仕事で役に立つことだけ追い求めても、生きる喜びを感じることのできない人の仕事で誰かを幸せにできるのだろうか。

役に立つとかムダだとか、目の前のものを仕分けることに夢中になりすぎると生きることそのものに喜びを感じられなくなるのではないか。物語に触れ、感じたものを糧にして、生きる力に変えて人生を歩むことを、もっと大事にしても良いのではないだろうか。